女の子を「少女」として消費するということ

 このあいだ、『八本脚の蝶』からこんな箇所を引用したけれど……ふと、ほんとうのほんとうに女の子と「少女」の区別がつかなくて、女の子を「少女」として消費することに無自覚な人は、こういう記述を見ても何とも感じないんじゃなかろうか、と考えた。こういう「女の子」の姿さえ、「思い悩む賢い少女」という、自分にとって心地いい「少女」イメージとしてとらえてしまうんじゃないだろうか。


「女の子」がいくら笑っても怒っても泣いても、いくら自分の考えていることや思っていることを話したり書いたりして表現しても、相手が作り出した実体のない「少女」像に吸収されてしまうんじゃ、「女の子」にとってはやりきれない。で、インターネットにおいては容姿の優れていない女の子でも「少女」として消費される発信者になることができるし、「少女」イメージを求める男の人はそういう女の子を見つけて受信者になる、そういうことは起こりやすい、と思う。


 でも、これが悪いこととは言えない。「女の子」の方がそういう「少女」として見られること、価値を認められることを必要としていて、男の人はそういう「少女」を必要としていて、互いにとって心地いい関係が成り立つこともある。(たいてい長続きはしないけれど)


 それに、自分の持つ「少女」イメージの枠内に女の子をおさめる男の人ばかりが、受信者なわけじゃない。中には、その「女の子」の声を親身になって聞いてくれている男の人も、いる。


 この違いは、ネット上のやりとりでさえ感じられるのだけれど……ただ、「女の子の方はそういう風に感じる」としか言いようがないので、たぶん本人にしか見えない違いなので、とっても説明しづらい。


追記。ここでの「少女」「少女イメージ」は「萌えキャラ」と言い換えた方がわかりやすいかな。と今思った。


 あと、ここでは引用箇所に基づいて「少女」と「女の子」を使い分けたけれど、最近(でもないか……?)「女の子」という言葉はここでの「少女」という意味で使われていることが多い気がするので……うう、ややこしい。