児童文学を読んでいたころ、そこに出てくるのは女の子だった。大人の本を読み始めた九歳頃、私は「少女」というものに出会った。
「少女」は女の子とははっきり言って関係がない。
それはすぐにわかった。
それはとても抽象的な存在だ。女の子や人間よりは妖精に近い。ただ、女の子と同じ姿形をしているのでとても間違われやすい。
「少女」は素敵なものだ。それは純粋で奇麗で観念的だ。
でも当然気付く、「少女」はすぐに大人の男の人に利用されるのだ。
それは無垢で悪魔で天使でいたずらで非日常で無邪気で神秘的で繊細で元気で優しくて残酷で甘えん坊でわがままで弱くて強くて無口でおしゃべりで白痴で悩みがなくて憂いに沈んで無表情で明るくておてんばで物静かでこわがりでなにもこわくなくて何も知らなくて何でも受け入れてくれて潔癖で閉鎖的な性質を持っている。
だから、いつでも一番都合のいい性質が選び取られて、男の人を気持ちよくするために利用される。
そして、どうやら、男の人たち(私が知っていた大人の男の人とは、つまりみんな本を書いた人のこと)は「少女」と女の子の区別がつかないらしいのだ。
私は女の子だ。
私は「少女」ではない。
私は「少女」が素敵だと思う。
私は「少女」ごっこをする女の子になった。
素敵な抽象物になろうとした。
二階堂奥歯 『八本脚の蝶』 pp.223-224)