「読みたいものがない」って、起こりにくい(んじゃないかなあ、って)

 荻原規子さんがエッセイの中で、自分が子どもの頃日本の児童文学の中に読みたいものがなかった、というようなことを書いておられたけれど……そういう方々が大人になって、自身が「読みたい」と思うような魅力的なものを書いてくれて、それを享受できているから、わたしたちの年代に「読みたいものがない」「求めてるのはこんなんじゃない」って起こりにくくなってるのかなあ……と考えた。
 今、大学で児童文学・文化専攻ってところに在籍しているけれど、周囲の同年代に「日本のものより翻訳ものを読んでる、そっちの方が好き」って人、あんまり、見かけないんですね。ハリー・ポッターとかダレン・シャンとか例外もあるし、小さい頃に「世界の名作」の類に触れてはいるけれど、でも、現在進行形で翻訳ものを追っかけているって人、少ない。わたし自身がそうだし。
 それは、やっぱり読みやすさの点では上を行く日本産のものだけで、だいたい充足できちゃうからなのかなあ……って思うのです。
 でも、まあ、国内産だろうが海外産だろうが、児童文学(や、大人向けの文学)の中に求めるものがなくっても、ラノベだってケータイ小説だってあるし。読む、ってことにこだわらなければ、アニメだってゲームだってあるんだし。「物語」はあふれてるんだなあ……と思う。
 たぶん、既存のものの中に、「自分が求めているもの」がなくてもどかしい思いをしている人が、まったくいないわけじゃないと思うんだけれど……少なくともわたしは、既存の中にある物語の中で、充分に共感も憧憬も驚愕も戦慄も経験させてもらったから……うまく、そういう事態が、想像できないのでした。