薄れないうちに・輪るピングドラム最終回感想

 言葉にならないんだけど、薄れないうちになんとか書いてみる。
 最終回は見てて涙がわいた。どこからわいてきたかわからないけどわいた。
 この涙は、たとえばこのあいだアイマス20話を観て泣いた時のものとはまったく違う。あれはとってもわかりやすい。千早という、好きな女の子が悲しそうだから私も悲しかったし、その子が幸せそうに歌ってくれて私も幸せを感じられた、そういう風に感情が大きく動いた。だから涙が出た。
 でもピンドラは、どこがどう響いて涙になったのか、よくわからない。

 わからないなりにつらつら書く。晶馬が苹果ちゃんに愛してるって言って、彼女の身を焼く炎を引き受けるところ。手を離された苹果ちゃんは、すぐに手をつなぎなおそうとする(晶馬だけ置き去りにすることをよしとしない)。なんていうか、あそこで、自分に起きたことに呆然とするんじゃなく、とっさに手を伸ばすのが、苹果ちゃんというヒロインなのだなあと。

 私は、苹果ちゃんが傷つくのが本当に嫌だった。前回燃える日記を抱きしめてた時も、苹果ちゃんが死んじゃったり、酷い火傷をしたりしたらどうしようとハラハラした。ついでに言うとゆりさんにレイプされそうになった時も、見ててショックだったし落ち込んだ。彼女は私にとって、ちゃんと生きて幸せになって、大人になって老いてそれから死ななきゃいけない「女の子」だった。
 でも陽毬ちゃんについては、あんまりそういうこと、思わなかった。病弱で家庭的で心映えの良い、絵に描いたような(ってアニメキャラに使うの不思議な表現ですね)「少女」だから、「少女」のまま死ぬことは不思議じゃないと思っていた。あどけない少女のままで死ぬという役割を果たす、というかたちで消費されても当然だと思っていた。それほどまでに私は、少女を少女のままで死なせる物語に毒されていたし、憧れていた(このへん何故「少女」と「女の子」を使い分けているのかは、一言では説明できなくてめんどくさいのでここ参照)。

 でも「輪るピングドラム」は、苹果ちゃんという女の子も、陽毬ちゃんという少女も死なせなかった。消さなかった。運命を乗り換えた時、消えたのは少年たちだった。乗り換え後の陽毬ちゃんは、死すべき運命の少女じゃなくて、普通の女の子だった。そういう最終回だったことで、少なくとも私にとっては、この物語は特別なものになった。
 私は物語に触れる時、性別にこだわりすぎだと自分でも思うけれど、まあそれは、自分でもどうにもならない部分なので。