私は性慾に駆られてこの線の手前まで来て、これさえ越えれば望むところの性慾の満足を得られると思いながら、この線が怕ろしくて越えられなかったのだ。越えたくなくて越えなかったのではなくて、越えたくても越えられなかったのだ。その後幾年か経って再びこれを越えんとした時にもやっぱり怕ろしかったが、その時は酒の力を藉りて、半狂気になって、漸くこの怕ろしい線を踏越した。踏越してから酔が醒めると何とも言えぬ厭な気持ちになったから、又酒の力を藉りて強いて纔にその不愉快を忘れていた。こんな厭な想いをしてまでも性慾を満足させたかったのだ。これは相手が正当でなかったから、即ち売女であったからかというと、そうでない。相手は正当の新婦と相知る場合にも、人は大抵皆そうだと云う。殊に婦人がそうだという。何故だろう?

二葉亭四迷『平凡』新潮文庫 p.93)