共感と驚異

整形前夜

整形前夜

今の読者にとって「わからない」ことへの抵抗感はとても強いのだ。確実に「わかる」ところに着地することが求められている。その結果、近年は小説などでも、「泣ける」本とか、「笑える」本とか、感情面での一種の実用書のような扱いになっている。
「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」、言語表現を支えるこれらふたつの要素のうち、「泣ける」本、「笑える」本を求める読者は、圧倒的に「共感」優位の読み方をしているのだろう。言葉のなかに「驚異」など求めていないのだ。(P.103)

 若者の「驚異」への親和性は、現実の体験や実績の乏しさとも関連している。過去の蓄積がないからこそ、今もっている全てを捨てても新しい何かを得たいとか、世界を更新したいとか、考えることができるのだ。彼等は過去や現在に敬意を払わない。その全てをなげうっても未来を掴もうとする。(P.107)

 ところが、前項で述べたように近年の若者たちの言葉は「ありのままの君でいいんだよ」「しあわせは自分の心が決める」的な「共感」寄りにシフトしているようにみえる。これは何を意味しているのだろう。そうならなくてはサバイバルできないほど生存のための状況が厳しくなっているということか。だが「驚異」を求めて無謀な賭けに出る者がいなくなると世界は更新されなくなる。彼らの言葉の安らかさは、より大きな世界の滅びを予感させるのだ。(P.108)

「共感と驚異」「共感と驚異その2」「共感と驚異その3」全部引用したいくらいだったけど、一部にとどめました(それでもけっこう、長いか……)

 本の内容そのもの、だけじゃなくて、読み方というか解釈の仕方も、ものすごくわかりやすく着地させようとする風潮が一部に見られるなあ、って思います。んー、例えば……わたしにとっては村上春樹が、なんかわかんないけどなんかすごいことはわかるような気がする、っていうのの代表なのですけれど。それが、要するに女の子にモテる話でしょ? というような物言いで片付けられた時の、むかっとくる感じは、「驚異」をかんたんに「共感」に変換されることへの違和感だったのかなあ、と思います。

 あと、これを読んで思い出した桜庭一樹読書日記の一節。

 こういうことを繰り返したら、作家も読者も聞き分けがよく似通った、のっぺりした顔になってしまうんじゃないか。みんなで、笑顔でうなずきあいながら、ゆっくりと滅びてしまうんじゃないか。駄目だッ。散らばれッ! もっと孤独になれッ! 頑固で狭心で偏屈な横顔を保て! それこそが本を読む人の顔面というものではないか? おもしろい本を見せておいて「でも君には難しすぎるかもね」なんて口走って意中の女の子をムッとさせろ! 読もうと思っていたマニアックな本が、なぜかすでに話題になっていたら、のばした手を光の速度でひっこめろ!(P.211)